佐用町長候補公募運動の経過と総括
2001.5.10
公募委員会事務局長 坂本諭
はじめに
全国初といわれた町長候補公募による佐用町長選挙は終わりました。利あらずして敗北しましたが、大きな一石を投じたことには間違いありません。
そこで、「佐用町長候補者公募委員会」で候補者の選出までと、「明るい佐用町を創る会」へ移行し候補者擁立で選挙戦終了までに分け、前半部分について経過と総括を述べてみます。
この初めての試みが厳しい時間的制約のなかで紆余曲折しつつも、多くの共感を得るまでの取組みについて総括しようと思います。
この試みが先行し、各地で広く大きくはばたくさまを是非とも作り出したいものであります。
インターネットヘの取組み
総括の第一に取り上げ評価したいのがインターネット利用の成果であります。「インターネットを見たから応募したと言う人びとがほとんどで、さらにEメールと呼ばれるインターネットを利用した、いわば手紙のやり取りの結果、34名の応募となりました。
当初の予定だった選出期間を2週間延期したため、十分な応募期間となったものの、候補者決定後選挙までの期間が短縮となり、従ってもっと日数があれば結果がよかったのではとの声に、痛し痒しの苦悩と反省を持っています。
さて、インターネットで公募を閲覧した人々のアクセス回数は、未だ衰えず5月10日正午現在2640回に達しています。(因みに2/3日657、2/9日796、5/23日2774)
応募用紙の入手方法にPDFファイル読込が必要でしたし、この方法ではアクロバットリーダーの使用から、掲示板の設定、電話番号の捜出、講師招請で時間表摘出など関連する多数のソフトや、ISDN使用とパソコン設定、中古携帯電話の取得と設定など坂本旬、坂本共に要請し協力を得たことがこの方式による成功の一助であることは間違いなく、必ず触れるべき問題であります。
掲示板の設定は、誰でも、いっでも、自由に意見・連絡を書き込めるもので本題に関連した計22号が書き込まれています。
これらの方法が目新しくマスコミにも写り、結果としてまたとない手段であったことは間違いありません。因みに私との間で行われた主なメールの数値を述べますが、手紙でのやり取りと思えばいいでしょう。
@坂本旬=79回。自らのホームページを提供し、専用部分の開設から最終手段まで絶えず手間暇を費やしました。私とはメールだけでなく、速達で別送しアップしたものもありました。
なお、人権闘争にからむ点はこのデータから割愛しました。
A井坂信彦氏=48回。神戸市会議員と公募例や選考委員としてのやり取りなど。
B森山祐輔氏=27回。選考委員として率先し絶えず助言をいただき、学生の論文もいただいた。
C佐用町内のみなさん合計で=65回。中で一婦人は27回を占めました。
D熊坂徹氏=58回。4月6日以来の来援、自ら公募への相談報告など。
E西川修氏=29回。町長選でいっでもボランティアすると伝えてくれた青年。
他、青木選考委員長をはじめ選考委員就任への交渉。応募者との打ち合わせ、やり取りなど多数にのぼり、これらの合計は527回でした。
このような公募方式の成果は、朝日新聞社データベースによるところも多くありました。
ホームページヘの取組み
ホームページを立ち上げるには殆ど坂本旬の世話になりました。因みにホームページには9頁と掲示板3頁にわたる公募記述を行いました。(別紙掲示板部分を除き参照1)たびたび訂正したり新しい情報を書き込んだりしました。
ホームページについては選挙が終わり敗北したにもかかわらず今日現在、まだまだ興味をもたれる人が多くあるここも明らかとなっています。このことでは、全国に同じ、思いの仲間がいることを物語っていると言えましょう。このページはいつまでも残り参考にしてほしいと願って存続します。
対策会議は隔日に開いた
公募方式を思い立ってから、なるべく度々会合しようと申合せました。しかし、結果としては連日連絡しあい、隔日、夜遅くまでお茶だけの会合を持ちました。このことは思いの外大変なことでした。基本的な打ち合わせのつもりが、資料送付に追われるという始末と、送られてくる論文の整理、選考委員の範囲やそれぞれへの交渉、その結果の検討というさまざまな問題を考え、経験し、処理しました。また、当初3名で発足した公募委員会も途中から1名の参加を得て、計4名となったものです。
応募者への対応応募の方法では、Eメールによる問い合わせと参考資料の送付依頼が殺到しました。思いも寄らないことでした。最初は役場でもらったもので間に合うと思っていたのですが、次々と必要となり、覚悟を決めてその都度コピーして送付準備をすることとなりました。結局ほとんどをこなしたことになりました。メールは事務局の坂本あてなのでどうしてもパソコンを放置できない。また来た、また来たの連続はついつい気力も充実することとなりました。
「100人百歩」発行で
一方、公募で経過を逐一町民に知らせるために、公募専用のミニコミ紙は週刊を旨とし、計13号まで発行しました。発行日とその主な内容は次のとおりです。
*=・製作印刷
*=坂本・製作、印刷・木村
無印は木村・製作印刷
1号 1月21日 *佐用町長選挙候補者公募要項の発表
2面 *朝日新聞h13.1.19 熱血"町長さん"募ります 他
2号 1月28日 **町長公募? *画期的だ! *勇気あるぞ
2面 *町長公募話題沸騰(手紙やメールのはりつけ)
3号 2月4日 変えよう町政を〈アクセス657〉
2面 *ついに来た! 励ましの手紙! 日経流通新聞切抜き
4号 2月9日 *町長なぜ公募か 避けられぬ国際化の時代
2面 *応募速報 〈アクセス796〉 激励文抜粋
5号 2月11日 **投書
2面 投書
6号 2月18日 *勇躍の31名プラスの応募 人気上々、町長候補者公募締め切る
2面 *宣誓私たちは絶対公選法のルールを守ります
7号 3月3日 投書 きれいな選挙を望む 新しい感覚の行政を望む 外の人ではダメ?
2面 書類選考で6人残る ※差し替える
8号 3月9日 **やさしさ、あたたかさ、そして重厚公募で候補者決まる【菊池さんの写真入】
2面 選考委員一覧 選考委貫長のメッセージから
9号 3月14日 菊池隆夫候補選出の理由
2面 佐用町転入の記
10号 3月25日 菊池隆夫氏 密着取材の記 木村慎吾
2面 1面のつづき
11号 3月30日 *安全宣言 公開討論会参加呼びかけ デフレ無視の議員報酬アップ
2面 *堂本さん当選(千葉県知事)
12号 4月5日 *期待も大きく"佐用町から日本を変えよう"
2面 *Eメールから投書4件の紹介。手紙投書の紹介。
13号 4月8日 **愚直にいこう、やればできる。(菊池夫妻の写真入)
2面 **水不足をどうするか、公害排除が一番目の仕事
−長中期、短期計画を前進的に
このほか、議会活動を主とした報告紙を木村は「雑草の詩」、坂本は「佐用オンブズマン報告」を月刊紙として発行しており、この紙面でも若干言及しました。
選考委員制度の選択
私たちが自らの責任で選考すべきが本来なのかも知れませんが、敢えて選考委員にお任せするという手段に至ったことは、今回の公募で特筆すべきことでした。その理由は、政治風土において筆舌につくし難いほどしがらみと改革への無力感があること、にもかかわらず助役登用の習慣化、弊害化を案じ、佐用町においてこれを凌ぐに値する人物は選定し得ないこと等によるものでした。つまり、一任した末で起こる事実には、現在を上回る結果が必ず期待できるという信念でした。
選考委員の決定
当初から選考委員には学識経験者を中心に外部から招く部分と町内出身者でとの案があり、人数は町内で3名程度を考えていました。
外部からは学校統廃合で面識のある三上神戸大教授を中心に選考してもらうことにしていましたが、国公立大では無理ではないかとの三上氏の意見があり、氏のご意見により龍谷大教授、立命館大教授、西南大助教授、宮城大助教授(外人女性)、元外人町議女性弁護士、女性タウン誌編集長、テレビ作家、福山大教授、環境専門家、近畿大助教授、神戸家政短大教授、神戸市議[順不同]など社会学や村おこし、公募問題で卓越した業績と意欲の持主を網羅し、女性や外国人の判断をも期待し考慮しました。
町内出身者として佐用高校卒業者から大学教授2氏と元警察庁高官に交渉しました。結果、青木辰司東洋大教授(朝日新聞論壇所載・環境社会学)を選考委員長に、森山祐輔氏、阿部好一氏、井坂信彦氏、鈴木実氏、久隆浩氏、半田嘉弘氏等に委嘱したものです。
選考委員各位には、突然の依頼で、しかも責任の重い課題を負っていただき感謝に耐えません。
候補者の決定
多数の問い合わせの末、応募総数34名に決定。この方々を7名と地元選出部分の計8名の選考委員が書類選考しました。日程的に極めて不十分でしたが、私たちの意図するところを十分理解され迅速にご協力いただきました。
応募者はいずれも情熱溢れる論文を提出され気概を持たれていたことを実感しています。また補足分を提出されるなどした方や、遠くアメリカから応募し来日された方もありました。応募の状況では多くが1月末までの提出であり躊躇された方は少なかったようでした。なかでも発表後5日間に10名の提出があったことは特筆できると思います。
1次選考で6名が残り、2次の面接と再度の論文選考をUI石井で開催し、青木氏、阿部氏、森山氏、井坂氏、(久氏は当日は不参加)と木村公募委代表の5名により各候補者総当たりの面談を行いました。夕食後には模擬演説会も行い、翌朝にはミーティングと視察を行いました。さらに2次の論文による選考を行い、最終的に3月5日、大阪府和泉市の菊池隆夫氏に決定したものです。
選挙に臨む態勢は
選挙で勝利するための色々な戦略が考えられました。まず第一に合意したのは候補者の自主性を重んじることでした。候補者に予定された菊池隆夫氏に尋ねたところ、自ら選挙戦術をつくり自ら陣頭指揮するという事でした。
私は、みこしをわれわれが作り候補者はそれに乗る方法と、候補者自らみこしを作りわれわれは要請に応じて担ぐ方法に分けました。参謀についても菊池さん側からと公募委側で出し合い、よく相談して進める案を考えていましたが菊池さんが断り、代理人は出さないと言われたので、結果、自ら全てを取り仕切るとする旨申出があったと理解しました。
我々がこれを了承し、要請に応じて協力を惜しまないことで一致しました。また、ポスターや選挙道具で必要と思われる提案にも全て自分で取り仕切るとのことでした。必要な人員についても手配できると述べられました。
公募しながら選挙は主宰しないという、一見無責任の誹りを免れないきらいはありましたが、委員会側としてはこれ以上の相談もせず、各自の思惑のまま選挙戦へと突入しました。
なお、初日からミニ集会開催で講師に誰をあてるか不安でしたが、神奈川一愛川町議の熊坂徹氏の来訪を得て、早速応援弁士として加入してもらいました。
マスコミの態様
「全国から町長候補を公募する」と言うことだけで、マスコミの関心はかなり高くなったと思います。なかでもオルタスジャパン社は、もし成功した場合の全国的展開を視野に、われわれの殆ど全ての場面を撮影しました。また、サンテレビをはじめ各社の放送と、各新聞社も関心を寄せ、事前のコメントを取りました。
今度の事態で長野や千葉に続くのではないかとの意義と興味は当然起こり得るし、そのための手段を準備することは理解できます。特に朝日新聞では、最初から興味を持ち、情報の入手に誠意を示しました。
公募方式の伝播→神奈川・愛川町へ
愛川町から町会議員の熊坂徹さんが来られました。彼は佐用町の公募方式の実態を学びたいとのことでしたがその前に応援団に組み込まれ、実戦の最中に立つこととなりました。私は途中2度の状況経過を聞くべく機会を手配しましたが、人員配置の中でそうもならず、結果的に状況を聞く機会はなくなりました。
落選決定後の16日、漸く熊坂さんを伴い、江川の久保稔別邸で食事をしました。佐用町の感想をはじめ、愛川町での公募方式を案施したいとの思いを強く語られたものでした。愛川町では具体的に公募が始まっています。(別紙参照2)選考委員長は当町と同じ青木辰司東洋大教授で、鈴木実氏も激励のコメントを寄せていますし、私にも要請がありました。
この町の公募で佐用町のそれと大きく異なる点が挙げられます。第一に選考委員を町内から選出したこと、第二に選挙費用を含む選挙全部を公募委員会主導で行うことが決まっており、多分佐用町の結果を参考にされてのことだと思われます。なお、マスコミ対応では朝日が最初のようです。
私の反省から
今度の試みが落選とう言う結果で決著したことに対し、私たちは反省と今後の方針について総括するべきだと思います。けれど、未だ総括できていないことに問題の深刻さを感ぜざるを得ません。
多くの町民から今後はどうなるのかとの問に、公約の存在を申し上げました。また、支持者の中には住宅取得についての助言や方法についての提案もありましたので、菊池さんに伝えたところです。
飛火した愛川町では佐用町の轍を避けたようで、慎重な対応が行われています。特にカンパに基づく真の町民主導を目標にしたアイデアでは、苦労と楽しみの大きさが感じられます。
さて私の場合、今度の公募に対する期待の発端は、末包畜産公害を放置していること、人権裁判で町の関与をひとごとのようにしている態度、マックスバリュー誘致に対する態度文化情報センター建設にまつわる不条理など数え上げるときりのない反発から生まれています。とりわけ自分に関することでは、6年にもなる人権訴訟・村八分裁判で神戸弁護士会勧告や二審判決を尊重しない態度に決定的な不信をいだいたことです。この事実は差別の事実を多勢に無勢をよいことにするなどして真摯に判断せず、一方的な町長側判断を基に、普遍の立場を利用し正当化することから長期化が始まり今日に至っています。
議会においても正義を唱えつつもこの事実に目を覆い、ひたすら無関係と無関心を装い、全議員のみならず至近の理解も避けようとする態度が散見されます。不言実行の例えが不言不実行のままで時を経過した結果、今日的な行政不信と人間不信を招いています。
愚直に是は是、非は非をはっきりさせる勇気を持つことが普通でないとした風潮に幻滅と憤りを感じつつ、今回の選挙全体が、まさにストレスのさらなる増加を招いたと思っています。
おわりに際して
最後になりましたが、公募委員会成立及び運営について、木村慎吾氏と平井久美男氏の献身的なご努力と、先導的役割の発揮で全国へ向け発信できる成果を得られたことを誇りとしてご報告致します。また、私たちの多忙を知り、予てより賛成だった末神利則氏の加入がありました。
町長候補を公募したこと自体が画期的出来事であり、長野県、栃木県、千葉県などで見られた風潮が農村部ではどうなるのかという、興味津々な問題でもありました。けれど、小さな町の小さな運動は、当初から3名という発起人であり、広げたくとも拡がらないし、広げるほど先へ進まない結果になるのではないか、との心配も事実、ありました。さらに公開討論会ではリンカーンフォーラム方式で実施したいと思いましたが、引き受け手の無いままに日時が過ぎてしまいました。これからは、各地方でこの運動が必ず受け入れられ受け継がれるだろうと思っていますし、リンカーンフォーラムも選挙に必需の制度として定着するものと思います。
以上